大判例

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東京高等裁判所 平成2年(う)224号 判決 1990年7月20日

本籍

東京都大田区中央四丁目五九五番地

住居

同都世田谷区奥沢六丁目三一番一一-二〇三号

医師

髙木千枝子

昭和二年五月二六日生

右の者に対する所得税法違反被告事件について、平成元年一二月一五日東京地方裁判所が言い渡した判決に対し、被告人から控訴の申立があつたので、当裁判所は、検察官樋田誠出席の上審理し、次のとおり判決する。

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人船尾徹、同佐藤誠一連名の控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官樋田誠名義の答弁書に、それぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。

論旨は、要するに、原判決の量刑は重過ぎて不当である、というのである。

そこで、原審の記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調べの結果を加えて検討すると、本件は、東京都渋谷区内において「髙木クリニック」の名称で診療所を開設して医業を営んでいる被告人が、自己の所得税を免れようと企て、自由診療収入の一部を除外したり、仮名で購入した利付国債の利子を除外するなどの方法によつて、所得を秘匿した上、昭和五九年から同六一年までの三年分の実際所得金額が合計一億五九九四万二二八四円であつたのに、所轄税務署長に対し、その所得金額が合計二八五三万一一二二円しかなく、これに対する所得税額は合計五五六万七一〇〇円である旨内容虚偽の各確定申告書を提出して、各納期を徒過させ、合計七二二〇万四一〇〇円の所得税を免れた、という事案である。三年間に亘る所得税の逋脱事犯であつて、その逋脱額も巨額とはいえないまでもかなりの高額である上、逋脱率は平均九二・八四パーセントと極めて高率であり、社会的地位が高く、税法上も特別の優遇措置を受けている医師として、被告人の納税意識の希薄さは厳しく非難されなければならないこと、被告人は、診療所設備の拡張、改良とその医療法人化を考え、また、自己の老後の生活の安定や離婚した夫との間に儲けた米国籍の長男に対する生活費等の援助のためにも資金を蓄積したかつた、というのであるが、本件の如き逋脱事犯の動機として特に酌むべきものとまではいえないこと、健康保険の適用のない自由診療収入につき、受け取つた報酬を記載した「売上メモ」を日計表に転記する際にその一部を除外して不正な日計表を作成するなど、犯行の手段、方法は、悪質といわざるを得ないこと等に鑑みると、被告人の刑責はたやすく軽視することができない。

所論は、被告人の納税意識の希薄さについて、被告人は、顧問税理士から年間の総所得金額を一〇〇〇万円位にして確定申告すれば足りると言われ、これをそのまま信じてしまつたもので、かかる不適切な指導、助言がなければ、本件のような犯行に及ぶ筈はなく、この点を斟酌されたい、というのであるが、被告人の原審公判廷における供述を子細に検討してみても、税理士から言われたという一〇〇〇万円が、総所得金額なのか納付税額なのかすら曖昧で、関係証拠と比照してそのままには措信できない上、仮に、税理士から所論のような指導、助言を受けたとしても、これをもつて、特に斟酌すべき有利な情状とみることはできず、この所論は採用できない。

してみると、被告人は、事犯の発覚後、自己の非を認め、起訴に係る三年分だけでなく、その前の二年分を加えた合計五年分につき修正申告した上、借財等によつて逋脱本税、附帯税の納付を完了していること、経理の態勢を改善し、再犯なきを期していること、本件が週刊誌に報道されるなどしていて、既に相当の社会的制裁を受けたとみられるほか、本件に関しては、今後医療業務停止等の処分が予想される情況であること、被告人には前科、前歴がないこと、その他被告人の形成外科医としての業績や家庭の事情等所論指摘の首肯できる諸点を被告人のため十分に考慮しても、被告人を懲役一〇月及び一八〇〇万円に処した上、懲役刑につき三年間その執行を猶予することとした原判決の量刑が、重過ぎて不当であるとは認められない。論旨は理由がない。

よつて、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 半谷恭一 裁判官 堀内信明 裁判官 新田誠志)

控訴趣意書

被告人 髙木千枝子

右の者に対する所得税法違反被告控訴事件につき、左記の通りの控訴趣意書を提出致します。

一九九〇年三月二〇日

弁護人 船尾徹

弁護人 佐藤誠一

東京高等裁判所刑事第一部 御中

原判決の懲役一〇月、罰金一八〇〇万円、執行猶予三年の量刑は、以下に詳述する如き、苛酷なものであり、取消されるべきものである。

一、本件犯行に至る経緯の看過による量刑不当

原判決は、「本件は、皮膚科、美容外科、泌尿器科の診療を行う被告人が、総所得金額を一〇〇〇万円位で確定申告をすれば足りると考え」と認定している。

被告人は何故に総所得金額を一〇〇〇万円位で確定申告をすれば足りると考えたのであろうか。

きわめて恵まれた学生生活を送り、その後も九年間アメリカで医療を学び、帰国後しばらく勤務医として就労した後に、独立した被告人は、きわめて世間知らずであつた。

その様な状況にあつた被告人の納税意識には、税の専門家である税理士による適切な助言・指導が必要であつた。

ところが渋谷医師会から紹介された税理士から「だいたい渋谷医師会をみてても、一〇〇〇万円ぐらいの所得を出せばいいんだから、それ以上は無理をしなくてもいいんですよ」との指導・助言を受けた被告人が、これを真に受け「一〇〇〇万円位で確定申告すれば足りると考え」たのは無理からぬところであつたのである。

被告人は本件の如き脱税行為をすれば、有罪判決を受け、医師としての資格を剥奪される事態を招来することを正しく認識していれば、そして税の専門家である税理士から正しく指導・助言されていれば、決してかかる脱税行為をしていなかつたであろうことは明らかである。

本件犯行に至る動機について、原判決は「格別酌むべき事情はなく」と認定しているが、被告人の依頼していた税理士の前記指導・助言が被告人の納税に関わる規範意識の鈍麻へと決定的に左右したことは明らかである。

原判決は右の事情を何ら斟酌せずに、不当に苛酷な量刑を決定したものである。

二、本件犯行の動機について斟酌されるべき事情の看過による量刑不当

原判決は、「犯行の動機について格別酌むべき事情はなく」と認定している。しかし、原判決は本件犯行の動機に酌むべき以下の如き事情を不当に看過したものである。

被告人は、医師を父に持ち、充実した女学校生活を経た後、父の影響もあつて外科医を志し、医大に入学した。その後、当時は世間一般では外国に留学することが困難な時期にあつて、九年間アメリカに留学し、医学を学んだ。その後日本に帰国し、外科医として活動を始め、その三年後には独立して現在の医院を開業した。

その間、被告人は研究・実践を重ねることによつて、わきがの手術、治療の分野に、他の医師と共に新しい技法を開発した。この技法を用いることのできる医師は、被告人をはじめとするごく限られた医師たちであつた。そのため、全国からわきがに悩む多くの患者が被告人の医院をたずねるようになつた。

被告人は自らの医師としてのかような活動を通して、人知れぬ悩みから患者を解放し人生の福音を与えることに喜びを感じ、これを自らの天職とすら考えるに至つた。

しかしながら、より多くの患者を救済という「公的使命」を果たすには、被告人が保有していた設備ではあまりに狭隘であつた。そこでそのための設備を拡充すべく多大な資金を必要とした。

そこで診療収入を過小に申告することにより、右の計画を実現しようとしたのである。右の動機は、ただひたすら金員を蓄積しようというのではなく、「公的使命」実現を急ぐあまりに本件犯行に及んだものである。この動機を斟酌するとき、結果として医師としての資格を一定期間剥奪してしまうほどの原判決の苛酷な量刑は、あまりに不合理なものとなつている。

他方、外科医としての被告人は、一人の女性としての、即ち、妻として母親としての人生はけっして恵まれたものではなかつた。

被告人はアメリカに留学していたころ知りあつたアメリカ人と結婚し、一人の息子をもうけた。しかしながら、夫が愛人をつくり被告人を裏切つたことから被告人は離婚のやむなきに至るのである。一人息子を一時は離婚した夫に預けるのだが、夫は息子の面倒を見ようとしなかつたため、被告人がこれを引取ることになつた。

しかしそれまでアメリカに暮らしていた息子は、容易に日本になじむことができない。

しかも被告人は、自分自身の働きで、自らと息子の生活を支えて行かなければならない。被告人の仕事は多忙を極めた。休暇と言えば正月休みを取るだけ。日曜日でさえも病院に出なければならないこともあつた。被告人は息子とのスキンシップを保とうと努めたけれども、外科医としての多忙な毎日を送る被告人には、やはり限度がある。

そのため、被告人は、息子の面倒を見る家政婦を雇わねばならなかつたし、さらに当時年間一〇〇万円、二〇〇万円もの費用を要するアメリカンスクールに息子を入学させたり、あるいは息子をアメリカに居住させるなどの二重生活を強いられもした。またこの間、この最愛の息子が非行に走るような事態も経験した。

このように息子のために尽す費用も、被告人に多くの負担を強いたのである。医師を志す息子が将来必要とする費用、生活資金も母親としてなんとかしてあげなければならない。そのようなことから、被告人の医療活動の多忙さも更に拍車がかかる結果となつた。

このような状況におかれていた被告人が、自らの働きで得た収入をできるだけ多く確保しておきたいと考えたことは、無理からぬところである。

被告人のこれからの生活を考えるとき、医師として働いて、これらの生計に必要な資金を確保しなければ、一日たりともその生活を維持できない。右の如き本件犯行に及んだ動機とこれからの被告人一家の生活維持を考えるとき、原判決の量刑はあまりに苛酷すぎる。

三、本件犯行の態様について斟酌されるべき事情の看過による量刑不当

原判決によれば被告人による所得ほ脱を実行した「その犯行態様は悪質」であると認定している。

しかし本件の犯行態様を仔細に見ると、自由診療による実際の収入のうち、その一部を除外し、その除外した資金を隠匿した結果、その利子収入も除外された結果となつている。

従つて、本件では収入除外以外には、この種、脱税事件に通常見られる経費の架空計上などによる所得のほ脱はいつさい行なわれていない。

むしろ、起訴されている当該各年度における経費の計上については、被告人は現実の経費よりも過小に申告していたほどである。それは旅費交通費、接待交際費、減価償却費、利子割引料、雑費、特別広告宣伝費、消耗品費、諸会費などに現れている。

これらの事実をみるとき、原判決の「犯行態様が悪質」であるとの認定は苛酷である。

しかも、本件における収入除外の方法は、この種脱税事件に見られる方法とは異なり、きわめて単純かつ拙劣なものであつて、決して原判決の認定している如き悪質なものであるとは到底いいがたい。

四、本件犯行の結果についての過大視による量刑不当

原判決は「ほ脱税額の割合は、九二・二パーセントと高率であり、被告人の刑事責任は軽視し難いものがある」と認定している。

成程、ほ脱額の割合のみに着目すると高率であることは否めない。しかし、検察官の論告要旨にも、その所得税ほ脱税額は、「三年間合計七、二二〇万四一〇〇円であつて、近時大型化の傾向にある脱税事犯の中にあつて、決して巨額であるとは言い難い」と指摘されているのである。しかも、その所得を得た方法は長男を一人で養育しながら、外科医として寝食を惜しみ励んだ医療活動によるものであつて、その所得獲得方法には違法なものは全くなく、それに比し、原判決の認定した刑事責任は、あまりにも苛酷なものがある。

五、本来、負うべき刑事責任をはるかに超える苛酷な量刑

懲役一〇月及び罰金一八〇〇万円の有罪判決は、医師としての被告人にとつては「死刑」にも匹敵するほどの苛酷な量刑である。

右の如き苛酷な有罪判決は、本来、被告人が本件所得ほ脱によつて負うべき刑事責任をはるかにこえて、被告人に対して、医師としての活動を永遠に剥奪するところまでその責任を追及することを意味する。

原判決の如き苛酷な量刑によるならば、今後の医道審議会の審査を経て、厚生大臣によるかなり長期の(短くとも半年間の)業務停止処分を受けるに至る事態は確実である。

被告人は現在六三歳の外科医であり、この高齢で、短かくとも半年間の医師としての業務停止は、外科医として復帰するには致命的なものとなり、その復帰は不可能となるのは確実である。

なによりも、これまで外科医として長年にわたつて蓄積した優秀な技術・技能であつても、この年代の外科医にとつては半年間の停止は外科医として復帰する道が完全に絶たれることを意味する。

被告人が長年にわたつて蓄積してきたわきが・包茎治療の分野における習熟した技能・技法を、再び発揮する道が絶たれることは、被告人のみならず、これらの疾病に悩む多くの患者にとつてもきわめて不幸な事態を招来する。被告人のこの分野における医療活動の継続は、本件事件後においても社会的に広く嘱望されているのである。

そればかりか、本件の所得ほ脱行為に対して課された本税・付帯税を納付するに当つて巨額の金員を借り入れ、同金額を返済しなければならない被告人にとつて、外科医としての道を絶たれることは、直ちに経済的困窮状態を招来し、長男への必要な生活費のバック・アップも不可能となる事態を招来する。

原判決の如き苛酷な有罪判決は、右に明らかな通り、本来、本件犯罪を犯したことにより負うべき刑事責任を、はるかに超えるものを被告人に強いるものとなつている。

六、本件犯行後における被告人の納税態度とその医療活動からみた量刑不当

被告人は、昭和五七年分乃至昭和六一年分の五ケ年分につき、既に修正申告を済ませ、本税・加算税・延滞税合計金一億二四〇九万四一〇〇円を納付済みである。

被告人はこの費用を捻出するため、定期預金を解約し、また株券を譲渡するなどしたが、尚不足分があり、約八〇〇〇万円程の融資を受けてこれに充てた。この借財の現在残高は約七〇〇〇円にのぼつている。被告人は国税局による査察が入り、きびしい調査が続く中でも、右借財返済の為に、日夜寝食を忘れて働き続けた。原判決の苛酷な有罪判決を受けた後においても働き続けてきている。その働きぶりは日曜日を除いて、他には全く休日もとらずに夢中で働き続けるといつた猛烈なものとなつている。何故にこの様な異常なほどの勤務を続けなければならないのか。それはそうせざるを得ないからである。まず第一に被告人一人で経営する診療所においては、被告人は休む訳にはいかない。深刻な悩みをかかえて被告人の診療所に訪れる患者の為にも休む訳にはいかない。次には右の高額の借金の返済と長男の援助を続けるためにも、一日たりとも休む訳にはいかないのである。

この様な厳しいが、しかしそうせざるを得ない医療活動を続けながら、その医療活動によつて得る収入について、的確な所得の申告を行うよう次の如き納税態度を今日まで維持してきている。

本件当時の被告人の周囲には、被告人を監督する適切な人材に欠けていたことは前述したとおりである。

本件後、被告人は、従前の税理士から西村幸春税理士へと、被告人の納税手続担当税理士を変更した。同税理士は、本件直後から被告人の納税手続を担当し、被告人の納税手続を指導・監督している者である。

右西村は、本件に鑑み、同人が担当するようになつて、帳簿類を一新した。そして、このように一新した仕入長・売上帳・金銭出納帳・銀行預金元帳・日計表、さらに毎日の売上を記録するレジペーパーを通じ、被告人の金銭の出入りを同人がチエックする体制とした。

さらに同人は被告人を指導して、経理担当事務員を二人増員させ、この二人の事務員に現金についての監督を行わせるよう体制を取らせている。その結果、医院内での収入の面では、被告人が関与することがなくなり、従つて二重帳簿が作成される余地はなくなつたと言つてよい。また、支出の面でも、被告人がその都度前記二人の事務員に承諾を得て支出している。

さらに、取引銀行を第一相互銀行に一本化し、収入を隠す術もない状態としている。

以上の点から、被告人において、今後本件と同様の行為に及ぶ客観的条件はほとんどなくなつたと言い得る。

原判決は、本件事件後から今日に至るまでの被告人の患者に対する献身的で真摯な医療活動とその医療活動を遂行していくうえでの厳しい勤務態度、およびその生活を維持するうえで不可欠な医療活動を続けなければならない深刻な必要性、そして本件事件後における被告人の納税態度とその体制を看過したが故に本件の如き苛酷な有罪判決を下したものであり、その量刑はもつと寛大なものであつてよかつたはずである。

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